あるあいのふたり(2015.03.15)
小説『貴方の知らない私』(病葉 侍罹)
・過去捏造注意。
・陛下に虐められすぎた閣下が実家に帰ってしまう話。
※2017.09.03 全文公開
水飛沫が顔にかかった。しかしティーカップを投げつけたのは自分だ。大量の紅茶を浴びることになったのは、目の前の陛下の方だ。
エスカルゴン。ゆっくりと、そう名前を呼ばれる。地獄から這い寄ったかのようなその声音は優しくなんてないし、きっと一度では殴るのをやめてくれないのだろう。
頭を殴られた。バランスを崩す。その上にハンマーを振り上げた陛下が襲い掛かって思い切り振り下ろす。二回、三回、四回、五回。
「茶を運べと言っただけなのに、いきなりティーカップを投げつけるとは無礼ゾイ。次やったらタダじゃおかんゾイ。ほれ、さっさと立って、代わりの茶を用意せんか」
叩かれすぎて頭がフラフラする。だがもう私は決めたんだ。もう限界なんだ。
エスカルゴンは手に残ったソーサーを床に叩きつける。ソーサーの破片が飛び散って床を傷つける。
「実家に帰らせて頂きます」
そういい残すと、彼はデデデの横を素通りした。怒りは沸くが、表情に出ることはなかった。どちらかといえば落胆の方が大きかった。デデデが呼び止めるが、聞こえないふりをした。黙って玉座の間を出る。
エスカルゴンは巨大な城のひと部屋、自分の居住スペースとなっている部屋に入るなり、戸棚の奥にしまってあった古いトランクを取り出して、荷物を詰め始めた。彼の私物は本棚に並び机上にも溢れた分厚い本ばかりだったから、入れられる荷物は最初から決まっているようなものだ。ものの十数分で荷造りが終わったエスカルゴンは、古びた帽子を被って部屋の外に出た。
廊下の途中でフームとすれ違う。出かけるなんて珍しい、と言われた。エスカルゴンはおそらく彼女とももう二度と会わないのだろうと思いながらも、何と返せば良いかわからなかった。返す気力もなかった。
廊下の角を曲がる。デデデの寝室に辿り着く。仕事をしない彼の部屋にデスクはない。辞表を置く場所に困ったエスカルゴンは、ベッドの上に投げておいた。どうせ大臣に字を読んでもらうに決まっているから、乱雑に扱っても問題はない。
城を出た。城下町の人々は一人で歩くエスカルゴンの姿をジロジロ見ていたが、彼はそれにも何も言うことなく、ただププビレッジから去った。知り合いを作りすぎたことを少し後悔しながら、彼は故郷を目指した。
プププランドから遠く離れた国。麦畑が延々と広がるその地を、エスカルゴンはたった一人で歩いていた。プププランドから乗り継ぎを繰り返して、隣国に止まった汽車を降りてから随分と時間が経っていた。
麦畑の中に入り数十分歩くと、煙突から煙を吹かした小さな藁葺き屋根の一軒家が見えてきた。エスカルゴンはその屋根を見て、あっと声を上げると、足早に麦畑を掻き分けて進んだ。一軒家の古い木の扉を開ける。
「まあ、エスカルゴンじゃないの」
台所に立っていた母親は、彼の姿を見るなり驚きながらも出迎えた。胸に飛び込んでくる息子を抱きしめながら、その頭を撫でた。
「どうしたの、連絡も寄越さないで」
「いろいろあって」
「そうなのかい?じゃあお夕飯の時に聞かせてもらおうかねえ」
しかしエスカルゴンは、母の作ったスープを前にしても、ゆっくりとスプーンを動かすだけだった。そのことを母は責めなかった。自分の口から言い出せるようになるまで待ってくれていることを彼は知っていた。だからこそ、彼の心にその優しさが重くのしかかった。実家に帰れば、母に会えば即座に吐き出せるだろうと思っていた自分の気持ちは結局吐露されることがないまま、掛け時計は零時を回った。
明くる日、エスカルゴンは散歩に出かけた。懐かしい故郷の村を歩けば気持ちの整理も着くかもしれないと思った。故郷は変わらない家並みがそこにあるだけだった。自分の中の古い記憶と照らし合わせても狂いはなかった。村の中心にある井戸へ行くための大通りも、畑へのあぜ道も何も変わっていなかった。そのことに安堵しながら、エスカルゴンは村の広場から踵を返すと、脇にある細い小道に入っていく。小道にはもう人が立ち入ることが少ないのか、雑草が彼の背丈と同じくらいまでに伸びきっていた。
雑草の壁を越えれば、そこに広がっていたのはやはり昔と変わらない美しい花畑だった。幼少の頃は自分もここで遊んだものだったと過去を振り返る。少し思い出に耽りたくなった彼は、花畑に足を踏み入れる。
その時、視界の端に二人の人が写った。蝶を追い掛け回して遊んでいる子供と、それを見守る父親だろうか。エスカルゴンの落ちかけた視力では遠くにいる二人をしっかりと認識することができなかった。どちらにせよ先客がいるなら邪魔をしては悪いと、エスカルゴンが引き返そうとした時、おーい、と男が呼びかけた。彼が近寄ってくる。
「随分久しぶりだな」
そう声を掛けてきた男は笑みを湛えていた。エスカルゴンはその男に見覚えがあった。よく知っている、知りすぎた顔だった。
「最後に会ったのは何時だっけ。お前が隣国の大学を卒業して、この村に帰って来た時か」
男は懐かしそうに思い出話をしていた。あの頃は楽しかった、とか、元気にやってそうで何より、とか本心とは裏腹の言葉を撒き散らす。
彼の子供が蝶を追いかけるのをやめて父親に近寄ってくる。子供はエスカルゴンを見て、父親に尋ねる。
「パパ、このひとだあれ?」
「んん?ああ、このひとはねえ、昔パパが遊んでた、幼馴染だよ」
幼馴染。吐き気のする発音だった。エスカルゴンは、何故自分が声をかけられても気付かないふりをして花畑から出て行かなかったのかと数分前の自分を恨んだ。
子供が新しい蝶を見つけてそれを追いかけて行ったのを見て、幼馴染は再び面白そうに笑いながら、エスカルゴンに語りかける。
「知ってるぞ、お前プププランドとかいう遠い国のド田舎でエラい人になったんだって?噂はここまで届いてるよ。王様に似ても似つかない、とんでもないことをしでかす自称大王様の下でコキ使われてるってな」
エスカルゴンは苦虫を噛み潰したような顔をしながら眉間に皺を寄せた。故郷に帰れば、もう誰も自分を責めたり自分が酷い目に遭わされることもないだろうと思っていたのに。考えが甘かった。かつての虐めっ子がこんな美味しい情報を聞き逃すわけなかったのだ。
「小さい頃から虐められて、大人になっても虐げられる気分はどうだよ?わざわざご立派になるために自分からそんな目に遭いにいくなんて、本当物好きだよな。そんなやつが母親のために凱旋するなんてできるわけないだろうが」
「もう私は、昔の私とは違う!虐められてなんかない!だいたいあの国の権力を実質的に握っているのは、この私だ!」
確かにその通りだった。権力を握っているのは自分だとエスカルゴンは自覚していたが、それはあの大王をどうにか上手く誘導できた時だけの話だった。虚勢を張れるほどの自信には繋がらなかった。声が震えてしまった。それを見ていた幼馴染はニヤニヤしながらエスカルゴンの体を穴が空くように見つめていた。
「じゃあその傷だらけの姿はどういうことなんだよ。昔俺たちがお前と遊んでやった時より、ずっと酷いじゃないか」
エスカルゴンは昨日殴られたばかりの新しい傷を手で隠した。しかし痣だらけの体では、とても全てを隠しきれなかった。最も、そんなことをしても幼馴染からしてみれば、幼少の自分が付けたであろう傷跡が未だに消えずに残っているのが余計に可笑しかったのだが。
「虐げられるヤツはいつまでたっても虐げられる立場ってことなんだよ。残念だったな、臆病エスカルゴン」
エスカルゴンは、彼に掴みかかって、いつも貧しき人民共にやるように怒鳴りつけてやろうかと思った。しかし足が動かなかった。幼馴染の言葉に体を縛られたかのように、彼は微動だにできなかった。そんな彼を見て、幼馴染は同じ言葉を繰り返した。
「この、虫も殺せない臆病者め」
エスカルゴンは血相を変えて逃げ出した。すぐにこの場を離れたかった。一目散に駆け出した。幼い頃好きだった花を踏み散らかしながら、迫る日没に吹く冷たい風に涙腺を刺激されながら、幼馴染に背を向けた。石が追いかけてきた。軽い気持ちで投げられた小石はまともな軌道を描いていないのに、バラバラと雨のように彼の後頭部にぶつかった。幼馴染の笑い声が彼の耳の中で何度も何度もこだましていた。
陛下の態度は嫌いになれなかった。
自称と言えど、本当は国王である自分がやるべき仕事……山ほどの書類の山を振り分ける作業を押し付けたりとか、宿敵のピンクボールを倒す兵器の用意とか、買い付けた魔獣の管理とか、午後に出す紅茶は何処何処の何が良いとか、それを自分が一手に引き受けさせられることを本気で憎んだことはなかった。
それらは全て自分ができるだろうと期待されているから与えられた仕事だったし、その面では彼に信頼されていたから、苦こそあれど、仕事を投げ出そうとは思わなかった。臆病者だと罵られて石を投げられるよりずっと良かった。
こんな自分でも、役に立ちそうだと見込んで拾ってくれたから。その恩義だけで長い間、一度も休みを取らずに陛下に仕えてこれた。
それなのにどうしてだろう。
自分が昨日の紅茶を完璧に、当たり前に運んだことが、急に嫌になったのだ。
陛下の顔にティーカップを投げつけた。勿論それで怒られることは分かっていたし、どんな酷い目に遭っても仕方がないのに、何故か投げつけたくなったのだ。
何が気に入らなかったのか、自分でもわからない。
わからなかったから頭を冷やすためにここまで来たのだ。
自分の気持ちを整理するために、落ち着くために来たのに、どうして今、こんなに痛いんだろう。
石なんて陛下のハンマーに比べたら毛ほどにも満たないのに、これほど痛いのは何故だろう。
痛みなんてあるだけ無駄だから、臆病者と虐められていたあの頃に、とっくに忘れたはずなのに。大人になって随分経つ今、とても痛い。
エスカルゴンは自宅に帰るなり、真っ先に二階へと続く階段を上った。
母の制止を求める声も聞こえなかった。
今はただ痛みの原因を知りたかった。一人で考えたかった。
自分のことで分からないことがあると、お気に入りの椅子の上で一人で考えようとするのは幼い頃からの癖のようなものだった。
階段を上がってすぐの左の部屋は、子供の頃使っていた自分の部屋だった。
扉が少し開いていることに気付かないエスカルゴンは何の疑問も持たずに、扉を開けた。
「お、帰ったか。エスカルゴン」
部屋に入るなり姿を現したのはデデデだった。
しかもエスカルゴンのお気に入りの椅子に座りながら寛いでいる。
椅子の前の勉強机にはエスカルゴンの母親が作ったであろうクッキーがバスケットに入って置かれていた。
「な、なんでいるんだよ! ここは私の部屋! わざわざこんなところまで追いかけて来たんでゲスか!?」
「部下が逃げ出したんだから、捕まえねばならんだろう」
エスカルゴンはデデデを凝視しながら怒鳴るが、対するデデデはのんきにクッキーを頬張りながら当然の様に言った。
クッキーが減っていくのを見て、エスカルゴンは、これは自分の好物で、自分のためのオヤツだったのに何をするのかと、バスケットを取り上げる。
「辞表は昨日陛下の部屋のベッドの上に出したはずでゲス、もうあんたと私には何にもないんでゲスよ!」
「あんなもんカービィに食わせたゾイ」
「ヤギじゃないんだから……。とにかく、そこどきなさいよ! っていうか帰れ!」
エスカルゴンはデデデが座っていた椅子を蹴飛ばしたが、デデデはムッとしただけだ。デデデの方が重いので、椅子を蹴ったところで自分の足先が痛くなるだけだった。
イライラしたエスカルゴンは、疑問の渦中にある痛みとは全く別の理由で生まれた痛みに悶えながら、お気に入りの椅子に座ることを諦めて仕方なく、小さくなってしまった子供用ベッドの上に、うつ伏せで横たわった。
デデデが何も言わないことに気になったエスカルゴンは、ちらりと目線だけデデデに向けてみた。
彼は本をペラペラと捲っていた。字が読めないにも関らずだ。
「何勝手に読んでるんです」
「お前が読め」
たった今読まれていた本を投げられた。
ぽすんとベッドの上に落ちた表題を見る。
『こどもやがいかんさつシリーズ三 くさばな』と書かれたその本は、使い込まれた図鑑だった。幼い頃、これを持って花畑に咲く花々をひとつひとつ調べたものだった。
デデデはその間、本棚から別の本を取っては少し捲ってみて、つまらなそうだと思ったものを本棚に戻す、という行為を何度も繰り返していた。
天井まで伸びる本棚の中段を調べて、別の植物図鑑を見つけると、それを持ってまた椅子に腰掛けて捲り始める。
今度はエスカルゴンが学生の頃よく読んでいた本のひとつだった。
挿絵が少なくなったからか、デデデは顔を顰めながらページを捲るスピードを上げた。プププランドではない、他所の国の言葉で書かれた本は、デデデには尚更読めないだろう。
「こんなもんのどこがおもしろいゾイ」
「はん! 陛下のアホダラのオツムじゃ一生かかっても分かりっこないっすよ」
「かもなあ」
エスカルゴンは思い切り鼻で笑ったのに、デデデは気にも留めていない様子だった。
拍子抜けして、恐る恐ると尋ねてしまう。
「殴らないの?」
「もうなんの関係性もないんだろ」
「確かに」
あっさりと切り替えされてエスカルゴンは口を閉じた。
何も言えない自分に、再び疑問が沸きあがる。
自分はどんな答えを求めていたのだろう。彼に何かを期待していたというのか。暴力を? そんな馬鹿な、誰だって痛いのは嫌いだ。が、痛みを忘れた自分がそう思うなんて、なんて滑稽なんだろう……。
エスカルゴンは今の自分は欲張りに似ていると思った。
再び静かな夕暮れの部屋に、ページを捲る音だけが繰り返されるようになった。
暫くしてその音が止まった。
「これ……」
デデデが呟いた。彼が手を止めたそのページには大量の紙が挟まっていた。
エスカルゴンが博物画を模写した紙だった。隅に植物の生態についてが走り書きされている。インクは仄かに変色していた。
エスカルゴンは急に恥ずかしくなって、デデデから図鑑を奪うと勢いよく閉じて本棚に戻した。
「もう見んな!」
図鑑のほかにも、まだ面白そうだと勝手にピックアップされて積み上げられた本の山を急いで本棚に戻していく。
無駄だ、とデデデは制した。
「さっきの花の絵、見たことあるゾイ。お前が昔書いたとかいう本に載っていた」
無駄に記憶力だけは良い輩だ。
時々こうやって痛いところを突いてくるのにエスカルゴンは困らされる。
今では城の大図書館で本棚の肥やしになっている植物図鑑のことをよく覚えていたものだ。
「お前、ずっと前からこうやって勉強してたのか」
「からかいたいならからかえば良い。ガリ勉とか、引き篭もりとか、なんとでも言えば良いでしょ、実際その通りだったんだから」
エスカルゴンは、別に好きで引き篭もっていたわけではないと言い訳したくもなったが、幼馴染とその取り巻きのせいで外に出るのが怖くなってしまった臆病者の自分を曝け出すのはもっと嫌だったので、言葉を飲み込んだ。
何かしら嫌味を言われるだろうと覚悟していた。
しかしデデデは、ふーん、と素っ気無い返事をしただけだ。
エスカルゴンは調子が狂いそうになって、溜息を付くと再びベッドに寝そべった。
「考えてみたらワシはお前の出自について何も知らなかったな」
「知ったら知ったで、こんなに勉強したくせに自分に仕える身になってかわいそうに、って笑うんだろ」
「なんでそう卑屈になるゾイ」
「なんでもいいでしょうが」
どうせ陛下のことだ、自分が虐められっこの臆病者だと知ったら笑い転げるに決まっている。
それなら最初から言わない方が良いのだ。陛下は過去なんてずっと知らないままで良い。
対して今度はデデデが溜息をつく番だった。
そして視線を一度他所へ動かして、再び戻す。卑屈なままのエスカルゴンを睨んだ。
「誰にやられた?」
エスカルゴンはほんの少しだけ身震いした。
どうして分かったのだろう。自分は何も一言も口に出してはいない筈なのに。
デデデはまだエスカルゴンを睨んでいる。正確にはその後頭部を睨んでいる。
「え? ああ、これ? さっき思い切り転んだだけでゲスよ。こう、ツルーっと」
嘘を付いた。視線の求める答えを答えられなかった。下手な嘘だとは自覚している。
「茶化すな。昨日ワシから逃げてきたのに、石を投げられた程度で避けられないわけがなかろう」
簡単に、そして自らの予想以上に悟られていた。自分が石を投げつけられる身であることも知っていた。
エスカルゴンは握り締めた拳をさらに強くした。
痛めつけられるのは当然だと思ったからだ。
陛下に暴力を振るわれている今の自分は、思うほど昔と何も変わっていない臆病者だったから、石を避けられなかった。陛下を恐れていることをあの幼馴染に、あの石に見抜かれていたからだ。だからきっと痛みもあったのだ。彼は何故だか恐れていた。
「ワシの何を怖がっている?」
しかし恐れていることすら気付かれた。
だが答えは分からない。暴力ではない。自分ですら分からないのだ。何かが恐ろしくて、昨日の自分はティーカップを投げつけた。
けれど彼の何が怖いのか、エスカルゴンには分からない。
分からないことを知られたくなくて、エスカルゴンは虚勢を張る。
「何も知らない陛下には関係ないでゲス」
「なんだと」
「関係ないといったのは私、そしてさっき陛下もそう言ったはず」
当然、癪に触られる。
デデデはベッドの上に横たわるエスカルゴンに掴みかかる。
持ち上げられたエスカルゴンは、ふい、と顔を背けた。
殴られるかもしれない。それでも良かった。
殴られても、どうせ分からないのだ。暴力は怖くないのだから。
「関係ないと言われて本当に放るくらいなら最初からここまで来ないゾイ」
そう言ったデデデは怒りながらも少し寂しそうな目をしていた。
しかしそれは一瞬だけで、すぐに怒りを取り戻す。希少なことに、静かに怒りを顕にしていた。
だが結局デデデは殴ることなく、そのままエスカルゴンをベッドの上に下ろした。
「吐け。ワシは、たとえお前が使えないやつだろうと何でも知っている独裁者なんだからな」
そう言いつけると、デデデは再びエスカルゴンのお気に入りの椅子に腰掛けた。
「陛下の知らない私なんて、ロクなもんじゃない」
「黙れ。いいから話せ」
エスカルゴンはデデデからの視線を外すように背を向けて壁に向かって呟くと、デデデは矛盾しながら言葉を促した。
彼は言われた通りに溜め込んでいた言葉をただ吐き出した。
私は子供の頃から臆病で、人とあまり馴染めない性格だったから本ばかり読んでいた。
本を読んで、描いてあるものを探したり描いてあることと同じことをするのが大好きだった。先ほど陛下が見た図鑑も、おっかさんと一緒に花を見に行った時にずっと握っていたもの。
でもどんなに喧嘩に強くなれる本を読んでも、幼馴染には臆病者だと常に虐められていた。石もたくさん投げられた。私が他国の大学に進学する時も石を投げてきた。学問を修めてこの村に帰って来た時もそうだった。
大人になってもこんな扱いを受ける自分が惨めで、おっかさんに心配かけて、そんな不甲斐ない自分が悔しくて、私は村を飛び出した。おっかさんに何も心配いらないと言えるようになるために、絶対に立派になって帰って来ると誓った。
けれど何処にも行く宛も雇ってくれるところもなくて何日も国々を彷徨って、そして最果ての地に辿り着いた時、旅路に疲れて倒れた私を、貴方が助けて拾ってくれた。
「でも貴方が優しかったのはその時だけだった。時が過ぎれば貴方は私をコキ使うだけの人になっていた。私は確かにあの時から陛下に恩を感じているけれど、私は奴隷じゃない。ずっと乱暴に扱われたら、ティーカップだって投げたくなるじゃないか」
エスカルゴンはガタガタと体が震えていた。
こんなことを言えば怒られるかもしれないという怯えではない。長い間何も感じないように蓋をしてきた感情が溢れ出して来るのが耐えられなかったのだ。
エスカルゴンは溢れて大洪水になった心の底から、涙混じりに言葉を搾り出す。
「私は今まで騙されてたなんて思いたくない。あの時の陛下を信じたいだけ。そしていつか、貴方を信じられなくなる私自身が怖い」
両目から溢れてくる大量の涙が鬱陶しくなって、顔を覆った。
こんなみっともない姿は背を向けていても簡単に気付かれてしまうのだ。背中に刺さる視線が痛かった。
けれども彼は怯えているのだから仕方がない。いつかの自分自身に。
デデデは震えるその背をただ見ていた。よく見ると、自分が付けてきたありとあらゆる傷が体中に細かく散っていた。新しいものから、古いものまで。
しかしその中にはもっと古い傷も残っていた。子供の頃に付けられた苦い傷が痕になっていた。
その沢山の傷痕を撫でた。
背を擦られたエスカルゴンは、声を上げて泣き始めた。
こんな風に自分のベッドの上で座りながら泣くのは久しぶりだった。子供の頃はよくこうして泣いていた。
幼い頃からの嗚咽が染み付いた壁は、潤んだ視界には小さく頼りなく見えた。縋るにはもう小さすぎた。
だから後ろを向いて、陛下に縋りついた。
彼は、エスカルゴンが信じた通りに、無言でただその背を撫でるだけだった。何十回と撫でられて、泣き疲れたエスカルゴンはもう怖がらなくて良いのだと知った。
朝食の、大好きな母お手製のスープも、今年はこれが食べ納めになるだろう。年内にはもうここに帰って来れそうにない。
スープ皿を空にして玄関に立ったエスカルゴンに、母が驚いていた。
「もう行くのかい。一昨日帰ってきたばかりなのに」
少し残念そうな様子の母に謝る。そういえば母には何も伝えないまま出発することになってしまっていた。
「おっかさん、あのね」
出立の準備が終わり、手を止めて言えば、母はすぐに、なんだい、と返してくれる。
話したいことがある時に必ずエスカルゴンが言う言葉だった。そして母が返す言葉だった。
「急に帰ってきたのは、なんだか急に仕事が嫌になってしまって。おっかさんのために頑張るって言っていたのに、怠け者でごめんなさい。でもどうしても嫌だったから」
「怠け者だなんて、無理をするもんじゃないよ。あんたはよく頑張ってるんだから、もっと休むべきさ。時間が許すならもっとここに居てもいいんだよ?」
母の言葉に甘えたくなった。
ここに居れば、母は厳しくも優しく自分を受け入れてくれるし、理不尽な暴力に晒されることはない。
けれどもエスカルゴンは誓った約束を忘れたくなかった。
「ありがとう。でも帰ってきて気付いた、ここにいてもきっと私は幸せにはなれない。それにおっかさんと一緒にここに居たら、立派になる約束を破っちゃうでしょう」
それに実家から一歩外に出て気付いたのだ。
村は何一つ変わっていないのだと。エスカルゴンに向ける視線も、その全ての内の一つだった。
しかし、幸せになれない、と言うエスカルゴンに母は顔色を変えた。それはこの村で過ごすことだけではないのだ。
母は窓の外で背を向けて立つ人影に、ちらりと目を向けてから言う。
「でもあの人は、あんたにもっと酷いことをするかもしれないんだよ?」
厳しい一言だった。エスカルゴンは自分を試しているように聞こえた。この村で受けた虐めよりもっと酷いことをされてきたことは事実だからだ。
それは分かっていた。実家に逃げてきたのも、直接的ではないにしろ理由の一つではある。
けれども決めたことなのだ。
エスカルゴンは声が震えないように何度か深呼吸をしてから、おかしなことを言う。
「こんな言い方はおかしくて答えになってないけど、でも、どうしてか分からないけれど、ここでのどんな罵倒よりも、あの人に叩かれる方がずっといいと思えるんだ」
母は、そんなことを言うなんて、と悲しそうにエスカルゴンの両肩に手を置いた。
「せめて別のところへお行きよ。あんたがそこまですることはないよ」
「あの町に長く居すぎたから、もう忘れられない。ごめんなさい」
「思い出があるのは分かる。でもそんな目に遭うのを続けてたら、あんたはいつかどうにかなってしまう。私はそれが心配なんだよ」
エスカルゴンは、母に自分が過度な暴力を何度も受け続けた結果を案じさせてしまったことを申し訳なく思う。
しかし、これはもうどうしようもない問題なのだ。
染み付きすぎた記憶がエスカルゴンを掴んで離さない。生涯忘れられないのだ。
「だから、もっと謝らなくちゃいけないの。もし私が死ぬことがあったとした時、私、もう一番におっかさんを思い出せないかもしれない」
長い間に形成された新たな記憶は、幼い頃の記憶を隅を追いやってしまっていた。確かに覚えている甘くて苦い大切な記憶だったのに、今ではすっかり摩り替わってしまっているのだ。
縋りたい壁は小さくなってしまって、もうあの頃には戻れない。いつしか縋りたい人も母ではなく別の人になっていた。縋りたい人の、その背が大きかった。
母は、肩からゆっくりと手を離した。
エスカルゴンはその手に触れたかった。
けれどもそれはできなかった。昔の自分とはもう違うのだと、時と自分自身がそれを許さなかった。
エスカルゴンは俯く母を見るのが苦しかった。
しかし母は次に顔を上げると、大声で笑い出した。
「そうかい、そうかい! いや、それならいいんだ」
「おっかさん?」
「ごめんよ、困る質問をして。私はあんたを試したかっただけなんだ。でももう大丈夫だね」
エスカルゴンは突然母に抱きしめられた。頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。
「こんなに大きくなって。大事な人にこんなところまで探しに来てもらって。大切なことが分かったんだね。長生きはするもんだねえ」
立派と言われる程まだ努力はしきっていない、とエスカルゴンは反論するが、その度に母はそれを否定した。
エスカルゴンには自分のどの辺りが立派なのかさっぱりわからなかったが、母の優しさが嬉しかった。そう言われてしまえば、より立派になって帰って来なければならないと思った。
母にひとしきり撫でられ、解放されると、母はにっこりと笑顔で言った。
「幸せにおなり」
別になんてことはない。明日からまたいつも通り、仕事に戻るだけだ。
それなのにそんな風に言われてしまうと、どう返して良いか分からなくなる。
エスカルゴンが顔を赤くして返事に困っていると母は玄関のドアノブに手をかけた。
「さあ、行っておいで。あの人が待ってるんだろう?」
普段だったら置いていかれている可能性もあるが、今日に限ってそんなことはないだろうと信じたい。わざわざ追いかけて来たのは向こうなのだから。
エスカルゴンはしっかりと頷いて、うん、と返事をした。
「行ってきます、おっかさん」
「行ってらっしゃい。体に気をつけるんだよ」
ドアが開かれた。鼻を擽るのは麦畑を駆ける春風だ。怖いものなど、どこにもない。
ガタゴトと一定のリズムで揺れるのは気持ちが良い。窓から入り込む夕方の春風も心地良かった。
窓の外は広大な野原だった。民家はなく、道は申し訳程度に轍ができているのみだ。
どこまでも広いその光景は、あと数分すれば変わってしまうのだが、この長さを人の足で歩くには相当の時間がかかるだろう。
数分後、小さな村の駅に列車は到着した。
降りる人は疎らだ。そして乗る人もまた一人、二人。
列車は人を飲み込み終えるとドアを閉じてまた走り出す。
乗って来た乗客の一人が、此方にやってきた。どうやら長椅子の隅に座ろうとしているらしかった。
席を詰める良心は無くはないので、隣で眠っている部下の肩を、起きないようにそっと引き寄せながら隙間を作る。そして自分はまた外を眺める。
窓の外に広がる、呆れる程長い道程を、まだ線路のない頃に彼は一人で歩いて最果ての地を目指したのだ。
着いたところでどうなるかも知らないのに、ただ我武者羅に歩いてやってきた。立派になるという壮大で本当はもっと簡単な夢を抱きながら、この星の隅々まで旅をした。
長い時間をかけて彼が領地にやって来た時は、既に息も絶え絶え、水も食料も尽きてから随分と経っていたようだった。通りかからなければ数時間で事切れていただろう。
声を掛けても返事もできないほど衰弱していたくせに、今では減らず口を聞いて家出ならぬ城出をする程になった。一体命の恩人を一国の何だと思っているのだろうか。
本来こんな生意気なやつは、わざわざ追いかけて探しに行く価値もないのだ。価値のないものに価値を感じることで、貧しき人民共にマヌケとか、フヌケとか、ノロケと呼ばれるリスクも上がるというのに。
そんな彼は、昨日に泣き疲れたのか、すやすやと寝息を立てて眠っている。寄りかかって頭を乗せるせいで右肩が重い。
時折列車が大きく揺れる度に、頭が落ちて目を覚まさないか心配ではあるが、遠慮なく寄りかかるのが悪い。
しかしそんな心配は杞憂だった。列車のアナウンスが終点の名を告げる。十数分もすれば我が領地だ。
頭が重い彼を起こしてやろうと思ったが、優しくしてやると決めたのだ。たまには。
だからもう少しこのままでいてやることにする。
プププランドはもうすぐだ。