或る花園に至る海境

   ・静雄×臨也+静也。
   ・静雄、臨也、静也全て捏造。
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出されたコーヒーの苦味が消えない内に、医者はリビングへ戻ってきた。なんということもないよ。何度そのやり取りをしたかわからない。今回も、何の進展もなかった。

「そろそろ解放してくれる気になった?」

医者はテーブルを挟んで俺と向かい合う形になって、引いた椅子に腰を下ろした。
彼の言葉に嘘の可能性を読み取れなかった。恋人との愛の巣に、何時までも邪魔者を置きたくないのだろう。けれど、物言わぬ物体なのだし、そこまで毛嫌いしなくても良いではないか。勿論、毛嫌いしていないから、こうして何年も面倒を見てもらっているのだけれども。

「正直、俺もどうしたらいいか分からないんです」

包み隠さず本音を漏らす。
成人して四十年ほど経つが、未だに分からないことが沢山あった。病人の対処など教わったこともなかった。これも、その一つだった。人は、どこまで年を取れば、賢人と呼ばれるようになるのだろう。それとも、単に俺がつまらない人間だからなのだろうか。

「質問を質問で返さないでよ」

今ここで頼み込めば、渋々、といった態度を取りながらも二つ返事で了承してくれるだろう。彼も俺もまた、今までと同じ日常を続けるだけだ。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。今はもうただの老人を、ここに置いても良いのだろうか。植物状態の彼が居ようと居まいと、大した世話をこの医者にさせるわけではないが、それでも彼を眠らせていても良いのだろうか。
医者は席を立つと、リビングの隣にある小さな部屋の扉を開けた。先導されながら部屋に入る。時代を感じさせるマンションのドアが、閉められ、軋んだ。
皺だらけの老人が眠っていた。小さなベッドに、なんとか収まっている。その瞼が動いたことは、ここ十年なかった。

「眠れる獅子は、何を夢見ているんだろうねえ」

ずっと幸せそうな寝顔のままなんだ、よっぽど起きたくないんだねぇ、老いた医者は老人の頬に触れた。
この老人はやっと望みの平穏を手に入れたのだ、と、彼が倒れた時に聞かされた。若い時の彼は、手の付けられない程の暴れん坊で、怒りに任せ手当たり次第、身の回りの物体から人間まで破壊していったという。
俺は、粗暴なライオンの頃の彼を知らないから、その話は未だに信じられない。が、腐れ縁どころか、一生の殆どを知るこの医者が嘘をつくことに、彼にとっての利益を考えられなかった。俺は毎度毎度の老人の昔話だ、と流してきたが、医者はただ、事実を述べているだけなのだろう。
彼の寝顔を見ていると、やはり答えは出なかった。時が止まっているようだった。その時を、自分は止めたいのだろうか。俺は、彼にどうしてほしいのだろう。

「せめて、何を夢見ているのか分かれば良いんですけど」
「大体想像はつくけどね」

俺は敢えてその続きを聞かなかった。部屋の外に出ると、玄関の鍵が回る音がした。重いドアを引いて入ったのは黒い人影、この部屋のもう一人の住人だった。彼女は素早く手元のPDAに入力し始めた。

『来てたのか』
「お邪魔してます」

年季の入ったディスプレイは見にくい。ところどころに傷が付いているし、バックライトも切れたのか、暗いところではますます読みにくかった。過去に、新しく買い直さないのか、と尋ねたが、そのつもりはないらしい。おかえり、と玄関まで彼女を出迎える老医に貰った物だというそれは、まだまだ引退できないのだろう。
ライダースーツを纏った彼女に抱きつきまとわり付きながら、彼は此方に無言で視線を向けた。

「まだ答えが出せないなら帰って……いたたたた、セルティ痛いよ!僕ももうトシだからちょっとは優しくして!」

怒った彼女から発せられた影が、びゅん、と医者に鞭打つ、お馴染みの光景だった。相思相愛の二人による夫婦漫才も現役だった。時間という制約を受けない彼女は、何処か寂しそうにしながら。

「あ、いや、もう迷惑なんで帰りますよ」
『いつも済まないな』
「いえ、此方こそ……」

ジャケットを整え直して、会社の鞄を拾い上げると、俺はマンションの廊下に出る。
また来ます、と頭を下げると、彼女は慌てて飛び出した。

『送って行こう』
「なんで!?」

彼女の心優しい申し出に素っ頓狂な声を上げたのは医者の方だった。一応、遠慮しておくが、彼女は無い首を振って、俺の荷物を持ち始めた。あ、すいません、と再び礼をする。

『私が彼と話したいんだ。新羅は大人しく留守番していろ』
「ひ、酷いよセルティ!僕が生涯の伴侶じゃなかったのかい!?この前、お前が死んでも一緒に居てやる、って言ってくれたじゃないか!それなのに、そんなどうでもいい置土産とデートだなんて……ぐげごぶッ!!」

叩かれても尚、元気な老人だ。それとも愛の力と言うやつなのだろうか。

『行こう』

彼女は、無慈悲にも一室の扉を閉めると、俺より先にマンションのエレベーターに入ってしまった。その後に続く。
古めかしいエレベーターは、小さく、埃っぽい匂いがした。彼らの時代の産物だった。

『無礼なやつで申し訳ない』
「気にしてませんよ」

新羅さんが俺に対して、どうでもいい置土産、と言ったことだろうか。セルティさん以外に興味のないだけあって、適当なあしらい方だな、といつものことながら未だに感心する。

『あれでも、ずっと寂しがってるんだ。分かってやってくれ』

俺は先月末に行われた高校時代の同窓会を思い出した。十年前に行われた時より、参加人数が減っていた。前回には来ていた、懐かしく盛り上がった友人も、初恋のあの子も、亡くなっていた。人生百年、といえども、そこまで持つ人間は少ないのだと実感した。ひとりひとり、ぽつりぽつりと、降り始めの小雨がアスファルトを濡らすように、参加者名簿を滲ませ、減らしていく。そんな俺ですら、ちょっぴり寂しいと思っていたのだ。傘寿も半ばを過ぎた新羅さんは、これまでにもっと辛い経験をしているのだろう。そういえば、数年前の門田さんの葬儀の時にセルティさんの陰で、こっそり泣いていた気がした。
マンションの外に出ると、少し肌寒かった。毎年暑さで有名なゴールデンウィークといえど、日が刺さない夜は未だに冷え込む。油断して風邪でも引けば長引いてしまう。俺も若くないな、と苦笑した。
セルティさんのバイク――もとい、シューターは半世紀前のレトロな型番を維持しながら俺を乗せてくれた。池袋の郊外から新宿へ至る間、彼(女?)は珍しく嘶かずに、黙って歩を進めた。
途中の交差点を曲がったあたりで、俺は、ここで良いです、と申し出た。アスファルトに降り立った彼女は慌ててPDAに疑問を打ち込んでいく。

『自宅は反対側ではなかったか?』
「いや、ちょっと用事があるので……」

俺はセルティさんに古いカードキーを見せると、彼女は理解したように頷いた。

『成程、そうだったな』
「わざわざ送ってくれてありがとうございました」
『じゃあ、またな』

この時期になると、俺が実家に帰ることは彼女も周知の事実だった。挨拶もそこそこに夜道を歩く。後ろで、ひひん、とシューターも挨拶してくれた。彼女らの後ろ姿に軽く手を振る。
外灯に照らされ、足元の影の形を粘土の如く変えながら夜道を歩いた。ふと空を見上げると、流石新宿、ビル群はクリスマスかの様に光を放っていた。見えない星々の代わりに、数々の航空障害灯が点滅を繰り返している。そんな不夜城の一角、少しだけ寂れた中に、古い高層マンションが建っていた。
カードキーを通すと、二重になったガラス扉が開かれた。昔はピカピカだったであろうエレベーターが降りて来て、俺を乗せて動き出す。一年ぶりだ。
自動ドアもカードリーダーもエレベーターも、もうずっと前から取り替えられなくなっているのだろう。彼が、彼に会うために無理矢理乗り込んだ話など、誰も覚えていない。もし知っているとすれば、この罅の入った壁だけだろう。
感慨に浸っていたら最上階に着いた。今はもう誰も訪れないそこは、六十年前と変わらずに重い扉を見せていた。カードキーを差し込む。まるでピラミッドに立ち入ったかのように暗いその部屋は、俺を無機質に出迎えた。

「ただいま」

誰もいない実家に、帰ってきた。センサーに反応した電気だけが、おかえり、と俺を照らす。草臥れたスリッパに履き替えて、かつての彼らと同じ様に、廊下を踏みしめた。
長い廊下を進むと、途端に大きな部屋に出る。そこの電灯は旧式のため、センサーがついていないので、手動で電源を入れる。大窓からの夜景を見た。沈黙を保った部屋は毎年同じ顔を見せる。黒い革張りのソファも、立派なデスクも、アンティークなパソコンも、全てに埃が積っている。半世紀以上前の本棚には、化石化した情報が詰まっている。もう誰も狙わない、完全に外界に断ち切られた情報屋の事務所だった。
とはいえ、俺はあまり事務所に思い出はない。事務所側に立ち入ると叱られたので、殆どは住居スペースの二階に居た。この階の台所は、あくまでも客に茶を振る舞うために使われた場であったし、実際にここで料理をしたわけではない。彼が一人暮らしだった時は、まだ使っていた方らしいが、そもそも彼は料理が上手くなかったのでマトモに使われていたかは怪しい。
俺は事務所奥の階段を上った。錆びているわけではないのに階段は痛んでいた。時の摩耗には勝てないらしい。
二階に上がると、いきなり暖かみのある空間に変わった。ここからが家族としての生活の場だった。俺は三人掛けのソファに腰を下ろすと、サイドテーブルに買ってきたコンビニ弁当を置いた。

「いただきます」

召し上がれ、なんて言う人は誰も居ない。それでも、年に一度の習慣だった。ここにいる時は俺は家族の一員なのだ。
壁掛け式の電波時計は止まっていたが、今が相当遅い時間であることは分かっていた。が、明日は土曜日だ。多少ゆっくりしていても罰は当たらないだろう。叩き起こしにくる者など居ない。
それどころか、眠り続けるのもいるくらいだ。彼は一向に目覚めない。
今から十年前、彼はこのマンションで、ぱたりと倒れてしまっていた。たまたま俺がその日に実家に帰ろうと思っていたから良かったものの、そのまま放っておけばいくら喧嘩人形と言えど、老体の身、何が起こったかわからなかったところだ。慌てて新羅さんの元に連れて行ったが、その時に植物状態だと告げられた。医療知識に乏しい俺は詳しいことは分からなかったが、正常な状態に戻るのは難しいということだけは分かった。きっと今まで暴れ過ぎたから、脳も筋肉も疲れたんだろうねえ、という台詞がしっくり来たくらいに、彼の植物状態化は、ある種自然だった。副作用の無い力など無いのだ。それ以来、彼は目覚めないどころか全く反応しない。
一体何の夢を見れば、そこまで長い眠りに付けるのだろう。確かに良い寝顔をしていたが、出られない程の良い夢は、はたして悪夢では無いのだろうか……。
夢は覚めるから良い物なのだろうか。……彼らは俺から離れるから、良い人だったのだろうか。俺の手を握ってくれたのは、不幸のための布石だったのだろうか。今となってはそれも分からなかった。
あまり美味しいとは言えない弁当は空になっていた。彼の手料理が食べたい。





父と母が出来たのは、俺が五歳の時だった。
施設で育った俺の前に彼らは突然現れた。先生を通してはじめて触れ合った彼と彼女は予想以上に優しかった。施設の中でもあまり立場のよくなかった俺は、すぐに彼らを好いた。彼らの方も俺を気に入ったようで、トントン拍子に話が進むと、俺は彼らに引き取られた。施設を出る時、彼女が俺の手を引いてくれたのがとても嬉しかった。
はじめて通された自宅は、新宿の高級高層マンションだった。施設のボロボロの建物とはえらい違いだった。やはり少し余所余所しくする俺に、菓子とジュースを出してソファに座らせた彼女は、すぐに自室に引っ込んでしまった。
リビングに彼と二人っきりにさせられて酷く緊張したものだ。何と言っても彼は、もう明らかにガラの悪そうな男だったし、さっぱり笑わない人だったから、二人きりにされては流石に逃げたくて逃げたくて仕方なかった。震える俺に、彼はサングラスを取って、俺が怖いか、と問うた。現れた瞳が決して悪を孕んでいなかったことに気付くのに時間がかかったけれど、今思えば彼も彼なりに必死に接し方を探していたのだと思う。
俺がジュースを半分まで飲んだ頃、彼女はリビングに戻ってきた。お待たせ、と言って入ってきた彼女は、彼女ではなくて彼だった。綺麗な美しさも変わらず、彼女としての名残りもあったが、やはり男だった。そして俺は彼らの秘密を知った。幼心にイレギュラーだと思った。大変なところに来てしまったと思った。けれど、不安がる俺を抱きしめて言った彼の言葉に俺は酷く安心した。

「俺たちの勝手な行動に巻き込んでごめんね。でも母さん、静也の立派なおかあさんになれる様に、頑張るから」

それからの母は何と言うか、凄かった。施設育ちの俺の為に尽くしてくれた。時々叱られることもあったけれど、小学校に入学する時は防災頭巾から体操着袋まで全て手縫い(秘書の波江さんに教わりながら仕事の合間に作っていたのを俺は知っている)してくれたし、授業参観は女装しながらも必ず出席してくれた(勿論、友達には美男美女の親だと羨ましがられた。他の親からは嫉妬されてたみたいだ)。中高は彼らの母校に通ったが、毎日必ず自慢の弁当を持たせてくれた(味は保証されていなかったが全て完食はした)。
父はというと、子供の頃にはあまり目立った触れ合いは無かったが、気まぐれに作る料理が滅茶苦茶上手かったことを覚えている。それ以外は、よく睨まれていた。大概、母が俺を可愛がってくれた時にだったから、あれはきっと嫉妬だ。
両親が大好きだった。いろんなことを教わった。何より、目一杯愛してくれた。金髪でも黒髪でもない茶髪の俺を愛してくれた。決して普通とは言えない家族環境なのに、この二階で過ごしている時は一つの家族だった。彼らが家族で本当に良かったと、俺は胸を張って言える。
そんな母が亡くなったのは、俺が高校三年の修学旅行に参加している時だった。沖縄で旅行の二日目を過ごしていた時に、血相を変えた担任が俺に連絡してきた。母が危篤だから、今すぐ戻れ、と。
情報屋の母は、同じく闇医者の新羅さんのところで治療を受けていた。過去の交渉相手に撃たれたらしかった。どうして俺のいる時にしなかった、と怒鳴る父に、母はただ、自業自得だよ、と微笑むだけだった。俺はどうして母が撃たれなければならなかったのか信じられなかった。母は、母親としてだけでなく情報屋としても優秀で、ぬかりなどないと思っていた。けれど母は、静也とシズちゃんが守れて良かった、とか、夫や子供のために母親が犠牲になるのはよくある話だ、とか、よくわからない持論を述べるばかりで、それ以上の詳細は全く教えてくれなかった。
俺は静也のおかあさんになれて嬉しかった。母はそれだけ言い残して、息を引き取った。四十路にも満たない若さだった。ベッドの上に生気のない青白い細腕が力無く落ちた瞬間が忘れられない。
父は昔、臨也は俺が殺す、ロクな死に方をさせない、と周囲に宣言して回っていたらしい。それが半現実になってしまった父は酷く嘆き悲しんだ。幾日も泣き続けた。喧嘩などしない、嘆き人形だった。無神論者だった母の希望で海に散骨した時の、やりきれなさは俺の比で無かったように思う。
皮肉なことに、それからの方が父との交流は増えた。父が本当はとても穏やかな優しい人で、母を心底愛していたのだということに気がついた。毎月、命日には必ず海に花を手向けていた。俺が家を出て一人暮らしを始める時も、母さんのことは任せろ、と自信に満ちていた。時折、目と鼻の先で暮らす俺に、手前は料理が下手なんだから、と差し入れを入れてくれた。老いたこの頃も、意識を失うまでは頻繁に訪れていた。男二人で何をするわけでもないが、ただダラダラと酒を酌み交わした。父は酒が弱いので、すぐに脱落して人の布団で勝手に寝ていた。飲み過ぎないように注意すると、母にそっくりだと言い、泣き上戸の酔っ払いに変貌した。ただしツマミのおでんは一つ残らず食べられるのだから質が悪かった。そんなつまらない日常が楽しかった。
今はもうそれすら出来ないのが、少し悔しい。





過去に浸って、眠ってしまったようだった。ゴミはないが、塵ばかりの掃除されていない自室のベッドから起き上がる。腕時計で時間を確認すると、九時だった。適当にシャワーを浴びようと、脱衣所に向かう。
蛇口を捻ると冷水が分散して雨のように身を穿った。実家は、何時でも父が帰ってこれるようにライフラインを止めていない。久しぶりの仕事に、シャワーヘッドは困ったように水を出したり止めたりしていた。もうこのマンションも古いのだと実感した。それでも俺は、俺が死ぬまでこの部屋を手放したりなどしないつもりだった。俺の居場所だった。慣れた動作で蛇口を締めて、身体を拭く。再びスーツを着直して、実家を出た。朝食は実家では食べないことにした。塩辛くなりそうだったからだ。
休日でも新宿駅は混んでいた。旅行者の群れを掻き分け電車を探す。東京湾に最も近い駅を調べて、ベルの鳴る電車に飛び乗った。
車窓から景色を眺めていた。父は毎月この光景を見ていたのだろう。俺も毎年見ているが、五月以外の海を知らない。たまたま開いていた窓から海風が流れてくる。別に、実家で朝食を取らなくても塩辛かった。あまり変わらない気がした。海は何時だって俺には塩辛かった。どれもこれも、無神論者の母のせいだった。しかし、そこが母らしかった。素敵な、人だった。父が惚れ込んだ理由が分かる気がする。
下りる人の少ない駅で下りる。海の見える公園の隅、花屋で買った、仏花ではない白い花束を海に向かって放り投げた。ぱさり、と花が落とされる。手を合わせた。
母は大分独特な考えを持つ人だった。たぶん人間は皆死んだらヴァルハラに行く、と言いながら、でも俺は神様を信じてないからなんにも無くなっちゃう、と言う。そして、葬儀なんて遺族の自己満足にしか過ぎない、と言いつつ、命日に来るくらいなら誕生日に来て欲しい、とも言った。捻くれやがって、と父は相手にしなかったが、俺はその約束を毎年守っている。

「誕生日おめでとう、母さん」

母は望んでいなかったが、もしかしたら生まれ変わっているのかもしれない。それならそれで良いから、母にもう一度会いたかった。何十年も前に亡くなったのに、未だに母との再会を願っている自分は、女々しいだろうか。
現世で会うのが難しいのならば、いっそあの世で……と考えたところで、母に怒られそうな気がした。真偽は分からないが、自殺志願者を面白がってトランクに閉じ込めたくらいだ。自殺は馬鹿のすることだ、と叱られるに決まっている。生きている今を楽しもうよ、この瞬間を。と。
母は何処に消えたのだろう。彼は何処に居るのだろう。無の世界で、無になったのか。それともヴァルハラに居るのか。
俺には探せない。今の会社に勤めて長い間、北欧神話を研究してきたが、やはりその在り処は分からない。血の繋がりが無いことに苦しさは感じないけれど、母の考えていたことが分からないのは苦しかった。
目を閉じた。涙が流れた。今まで泣かなかったのに、何故、今年に限って涙したのか。不思議だ。
その時、閉じられた真っ暗な視界に、彼の姿が現れた。もう何年も見ることのできなかった、彼の後ろ姿だった。

「無になったから、消えたわけじゃないよ」

母は言う。

「無に成れたから、傍に居れるの」

彼は振り返る。そして俺の手を暖かな両手で包んだ。見覚えのある、人差し指と薬指に銀の指輪が嵌められた、懐かしい左手が上に、重ねられていた。
すぐに見つかるから。彼はそういって微笑んだ。美しい、綺麗な、母の笑顔だった。
はっ、として目を開けてしまった。ああ、自分は馬鹿だ。目を開けなければ彼の姿を留めておけたのに。本当に馬鹿なことをした。
眼前の煌めく海の遠くに、花束は流れてしまっていた。流れる内に沈んでいったのか、既に花は数本しか海面にない。
母は、花を掬ってくれただろうか。見ていてくれただろうか。
瞬間、幻聴だろうか、誰かが耳元で囁いた。

「あと、誕生日ありがとう」

えっ、と振り返ったが、案の定誰もいなかった。公園で子供が戯れる様子しか捉えられなかった。惜しかったのかもしれない。

「誕生日、おめでとう」

けれど、傍に居るなら聞こえているはずだろうから、今日生まれてくる子供たちのために、今日生きている全ての人のために、今日生きていた人のために、呟いた。音は形に成らないから、すぐに崩れてしまうけれど、海風に乗せて聞かせてほしい。何度でも同じ言葉を伝えたい。この世界に、俺に、母が居たことを。
突然、電子音が鳴った。ケータイを取り出して発信者を確認する。新羅さんからだった。もしもし、と言う間も無く、彼は開口一番、

『静雄くんが、亡くなったよ』

とだけ言った。

「そうですか」

……ああ、ずるいなあ。抜け駆けなんて。嫉妬したいのは俺の方だよ。
今からそっちの身体の方を見にいくけど、忘れ物なんてするなよ。大事なところでそそっかしいんだから。それから、できるなら俺の花束を持って行って下さい。それくらいのワガママくらい、聞いてくれたっていいじゃないか。
でも、母さんにとって幸せな一日になるだろうから、本当に良かった。
今からそちらへ向かいます、と返して電話を切った。新羅さんは、ゆっくりで良い、と言っていたが、俺もそろそろ行かなければならない。何も寂しくなることはない。また来年訪れれば良いだけの話なのだ。それに、何時だって傍に居るんだろう。
たった今、握られた手が暖かい。





暖かな、それでいて涼しい世界だった。見た目は暖かいのに肌寒い。朝焼けなのか、夕焼けなのか判別付かない、それこそ“桃”色の空が広がっていた。大地は見たことのない花で構成された花畑で覆われているが、不思議と不気味さは感じられない、これまた暖かな空間だった。その間を幾本の水路のような小川が流れている。緑青色の水が揺蕩っていた。
彼は、その小川の淵に屈んでいた。そうして、川上から流れてきたと思われる、小さな白い物体を掬い上げた。一つ一つ、ゆっくりと流れてくるそれを集めると白い花束になった。長い長い時間の中で、時折流れてくる花束だった。白魚のような指先で掴まれ、束ねられた花は、柔らかな風に揺れていた。彼の黒髪も揺れていた。
さくり。誰かが背後で花を踏んだ。

「無にならなかった俺を、殺しにきたの?」

彼は背後の人物に問う。

「手前の誕生日を祝いに来た」

怨嗟も睦言も、何度も聞いた低い声音は、その疑問を返す。

「こんなところまで来なくて良かったのに」
「無にならなかったくせに何言ってんだ」
「ヴァルハラじゃないと、君たちに会えないと思ったんだよ」

珍しく素直なんだな。彼が感心すると、彼は振り返って花束を胸に抱えながら微笑んだ。

「おかえり」

彼は、その笑みを見るために、この久遠の地を探していたと言っても過言ではなかった。十年も世界を彷徨いながら、やっと行き着き、見つけたのだ。彼ならば、きっと迎えてくれるだろうと信じていた。

「ただいま」

彼は、彼に歩み寄った。さくさく、と花が身体を捩る。
両手に抱えた大きな白い花束も風に吹かれて舞っている。
長い間していなかった、ただいまのキスをした。

「誕生日、ありがとう」

……本当は君が居てくれればもっと嬉しいけど、俺は死神じゃないから、そこまでは望まない。
今はまだ、彼と彼岸に座って、風に揺られて、年に一度の花束を掬うよ。
俺、来年はピンク色がいいな。
シズちゃんがフライングしたから、静也は、ゆっくりでいいよ。
まあ、気長に待ってる。たまには手を握ってあげてもいいからね。
俺は何時だって傍に居るからさ。






   あるはなぞのにいたるうなさか。古語素敵。古語大好き。
   静也くん関連で一つ作ってみたかったので、こんな形になりました。カバジャケたちとはまた違った感じ。たのしい。
   調子乗って書いてしょくぶつじょうたいとかようごしせつとか良く分かっていません。不快にさせてしまったらごめんなさいです。。
   臨也には白い花束が似合うと勝手に思っている。降臨祭2013でした。おめでとざや。

   2013.05.05
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