・来神静雄→←来神臨也。
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マンガ本は意外に重かった。しかし先程返してしまったので篭の重みはない。ペダルも軽くなった。赤信号のために足を動かすのをやめると、静雄は腕時計を覗き込む。七時四十五分。これなら学校には絶対に間に合うだろう。
今朝、静雄は中学時代に世話になった先輩へ忘れ物を届けにいったところだった。昨日、久しく会っていなかった田中トムと会ったのは良かったのだが、トムはそのまま持ってきたマンガ本を静雄の家に置いていってしまったのだった。静雄はわざわざ自転車で少し離れた田中家まで届けに行って、これから学校に向かうのである。
横断歩道を渡り終えると、道は閑静な住宅街へ入っていく。大きめの一軒家が立ち並ぶこの区域を静雄が通ることは少ない。通学路でもなかった。見慣れない景色の中を通ることに小さく不安を覚えるが、この一本道を暫く進めばそのうち大きな交差点に出ることが予想がつく。交差点に出てしまえば来神高校はすぐそこだった。そしてその見慣れない風景の中、一際目立つ黒い人影を静雄は見逃しはしない。学ラン姿なのだから黒いのは他の誰でも同じなのだが、漆を塗ったように鮮やかで眩しい黒だった。彼は振り返る。
「あれっ、自転車登校?」
「今朝は知り合いに荷物を届けたからな」
「律儀だねえ。おはよう」
「うす」
臨也は既に家を出ていたところだった。静雄より学校から遠いところに住んでいるので、この時間には出ていないと歩きでは間に合わないのかもしれない。
右側を同級生が自転車で走っていった。併走するつもりはなかったが静雄は臨也の側に自転車を寄せていく。この地域に住む同じ学校の人間は自転車を使っているのだと気付くと、臨也が何故自転車登校しないのか気になった。静雄は臨也が自転車に乗ったところを見たことがなかったのだ。静雄は一つの可能性を頭に浮かべながら、臨也に尋ねる。
「手前、自転車登校してないんだな」
「自転車って意外と小回り利かないんだよね。たとえば君から逃げる時とか」
臨也は視線を逸らしてしまう。その視線の方向は左。
「もしかして、自転車乗れないのか?」
静雄が口にすると、臨也はノミの様に飛び跳ねた。そして、はあ!?、と顔を真っ赤にしながら捲くし立てる。
「自転車に乗れないだって!?この俺が?ナメるのも大概にして!素敵で無敵な俺が、できないことなんてあるわけないだろ!ふざけんなよ!自転車くらい乗れる!」
臨也は静雄から自転車を奪うと、ぴょんと跨る。
「自転車くらい乗れるんだから。見てろよ」
彼はペダルに右足を掛けた。そしてゆっくりと漕ぎ始める。が、進まない。
「あれっ?あっ、こうか」
臨也はペダルを二周ほど後ろに逆回転させてから、やっと気付いたのか、ペダルを前に踏むようにした。左足を地面から離して、慌てて左側のペダルの上に乗せる。そして同じく慌ててペダルを踏みつけた。両足のペダルの踏み込みが噛み合っていない姿は、どうみても素人のものである。静雄はからかう気が失せて、逆に心配になってしまった。臨也はじたばたと情けなく、一生懸命にペダルを交互に踏んでいく。自転車はのろのろ進み始めた。
「ほら、乗れるじゃないか!普段の俺は自転車なんかに頼らないだけ。乗せてみればこんなに上手く乗れるんだから」
「余所見してると危ねえぞ」
臨也はくるりと振り向くとドヤ顔で静雄を見る。もたもた足を動かす臨也の自転車は、ふらふらと足取りが怪しくなっている。
「そう、俺は自転車に乗れる!乗れるんだってば!呆けてるシズちゃんの前で颯爽と軽快に自転車を走らせる俺ってとっても器用……」
静雄が危なっかしい姿を見て、止めようか止めまいか悩んでいるのも束の間、臨也は言葉を切った。
「み゛ゅっ!!」
ブレーキをかける間もなく、臨也は思いきり顔面から電柱にぶつかった。そもそも臨也は自転車のブレーキの場所を知らなかったのだった。
「離すぞ」
「いや!」
「嫌じゃなくて」
「やだ、やめて!離さないで……わ、わ、わあー!」
ドンガラガッシャン。静雄は、またダメか、と溜息をついた。
臨也が自転車に乗れないことが発覚してからというもの、静雄は臨也の自転車乗りの練習を手伝ってやっていた。放課後、学校から静雄の自転車で公園まで行って練習するのである。臨也が、近場の公園では、練習している姿を見られるのが嫌だというので、わざわざ片道三十分もの道を静雄が連れて行ってやっていた。シズちゃんはご両親から自転車の乗り方を教わったんだろうけど、俺の親は海外勤務で忙しくてそんな暇なくてさ、妹達の面倒もあったし、と寂しそうに言われてしまえば、誰だってからかえないだろう。
それも今日で一週間だが、彼は一向に上手くならなかった。転んだ回数は増えるばかりだった。
自転車の荷台に添えていた手を離したせいで横転した、と文句を言う臨也の制服に泥がついている。ぱたぱたと手で払っているが汚れは落ちそうにない。
「大丈夫か」
「全っ然」
「諦めて三輪車にしろよ」
「この歳で三輪車なんて変質者じゃないか」
大人用の自転車に補助輪は取り付けられるのだろうか。静雄の持っている安いママチャリより補助輪の方が高かったらどうしようか。そもそも補助輪が存在するのか。静雄は財布の心配しつつ、臨也がどうやったら自転車に乗れるようになるか考えている。しかし臨也は静雄が補助輪について考えていたことを読んだらしい。
「まさか補助輪とか子供っぽいこと考えてるんじゃないだろうね」
「転ぶよりマシだろ」
「そんな恥ずかしいこと俺ができるわけないでしょ!シズちゃんじゃあるまいし」
俺のどこらへんが恥ずかしいんだ。静雄はムスッとするが、今の臨也の悪態には中身がない。ただのやつあたりに違いない。静雄は地面に座り込む臨也を立たせてやると、もう一度試してみるという臨也を見守ってやることにした。
静雄はもう一度、荷台を掴んでおいてやる。臨也はペダルに足を掛け、ゆっくりと踏み込んでいった。交互に、リズム良く。しかし未だにふらふらとしている。
「目線が下になってんぞ」
「だってまた転ぶかも」
「ヘルメットでもするか?」
「かっこ悪い」
恐らく、踏み込み方は悪くないのだろう。エアロバイクを漕がせてみたとしても何の支障もなさそうだ。だが臨也の目線と姿勢が悪そうだと静雄は思った。足元を気にしているため勢いがつかない。背中も猫背になりがちだった。それで安定しないのだろう。
「前を、遠く見て走るんだよ。背筋を伸ばして」
「こわい」
「ちゃんと持ってやってるだろ」
臨也が少しずつ背筋を伸ばす。頭の向きが真っ直ぐになる。キコキコとゆっくりと進む自転車の荷台を、静雄は早歩きで掴んでいた。あまり力を込めすぎると自転車を止めてしまうし、何より荷台が壊れかねないので、静雄にとってはこの力の制御が予想以上に大変だった。逆に考えれば静雄にとっても力の制御の仕方を学ぶ良い練習になるということだ。
臨也はハンドルをぎゅっと握りながら、後方に伝わる力の強さを感じていた。静雄が早歩きしながらも支えてくれていることに安心しながら、一定した速度を保つ。目を前へ遠くへと意識しながら自転車を漕いでいく。余計なふらつきが少なくなっていることに気付いた。
静雄は自転車が真っ直ぐ進んでいくのを確認すると、ゆっくりと荷台から手を離していく。片手ずつ、そっと、臨也に分からないように離していく。
自転車は、そのまま、すいすいと走っていった。
「おお、できんじゃねえか」
しかし静雄が感嘆の声を上げた瞬間、へなへなと自転車は蛇行し、そして再び、がしゃんと地面に横たわった。
「離さないでって言ったのに」
結局転んでしまった臨也の頬に血が滲んでいる。電柱にぶつかった時のように顔面を打ちつけたようには見えなかったが、掠ってしまったらしい。静雄は彼に駆け寄るとその血を拭ってやった。
「でも途中まで気付いてなかったし」
「じゃあどうして声掛けたの」
「そりゃあ教えた甲斐があったら喜ぶだろ」
「全然分かってない」
臨也は自分の頬に触れて、血が付着しないのを見て、複雑な顔をした。
「荷台から手を離しても、俺の後ろに追いかけてきてくれていれば良かったんだ」
気付かないようにさせてよ、とは無理難題だ。
静雄はそこまで気が回らなかった。特に、目に見えることには気を遣ってやれても、臨也の心の中では気遣えない。同じ人間ではないのだから当たり前だと思うと同時に、一体臨也は自分に何をしてほしいのか分からなかった。
「もう帰る」
臨也は自転車を起こすと、静雄が自転車に乗るのを待った。世間では自転車の二人乗りは禁止されているらしいが、彼らはそんな注意を聞き入れるような人種ではない。校舎を破壊してきた方が重罪だろう。
静雄は臨也が荷台に乗ったのを確認してから、自転車を漕ぎ始める。振り落とされないようにするために後ろから臨也の腕が回ってくる。コアラのように抱きつきながら、人気のなくなった公園を出て行く。
「自転車、乗りこなす気あんのかよ」
静雄は臨也の不貞腐れた態度にふつふつと腹が立っていた。指導が下手だと文句を言われ、回りくどい言い方ばかりされて、臨也でなければとっくの昔に嬲り殺しているだろう。自分も随分と丸くなったと思う。
「ないよ」
「あぁ?ふざけんなよ、ノミ蟲」
「でも明日も練習ね」
乗る気がないのに練習するだなんて理不尽すぎる。静雄は苛立って、ペダルを強く踏んだ。道は上り坂だった。強く踏んでもスピードが付かないので丁度良い。立ち漕ぎをすると臨也が振り落とされてしまうので、そのままの体勢で漕ぎ続けた。二人分の体重と荷物の重さを背負って静雄は漕ぎ続ける。そうして坂の頂上にきたところで、臨也が腕を回し直した。
「綺麗だね」
臨也は、この坂の頂上に来ると必ずそんな言葉を漏らす。町が夕陽に染まっていく様子を、少し高いところから見下ろすのが気持ちが良い、それだけの理由で呟いているのだ。静雄もそう思っていた。しかし肯定はしない。返事をしてしまえば、この自転車の練習は終わりを告げるような気がした。静雄にとって自転車の練習は厄介ごとでしかなかったのは確かなのだが。
臨也はそれきり黙ったまま、しっかりと静雄の背に自分の体を密着させているだけだ。
坂を下る。ゆっくりと、そしてだんだん早く坂を下っていく。ブレーキは必要以上に掛けたくなかった。
二人は無言で風を受ける。耳元で風音がびゅうびゅう鳴る。今なら、好きだと呟いても誰の耳にも入らずに空気に溶けてしまうだけなのだろうけれど、静雄はそれをしなかった。
明日も明後日も、彼らの自転車の練習は終わらない。臨也は絶対に一人で自転車に乗れない。乗らない。
短い上に雰囲気小説で申し訳ないです。。ちょっと今回は書き方を模索してみていたりしています。
静雄がシューターちゃん(チャリVer)に乗っている時、ふと考えました。臨也は自転車に乗れるか否か。
実は乗れないとかだったらとってもかわいいです。ただ臨也の生活環境からすれば自転車いらないですね。
それにしても毎日自転車二人乗りデートとはお熱いことで…。でも好きってまだ言ってないよ。
2014.03.15
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