・『今日、花嫁を殺します。』 前編(全2編)。
・静雄×臨也。
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【1】
奴のことを何度黒猫と評したか分からない。真っ黒で不吉で人を小馬鹿にしたような動きをする。海に垂れ流される工場排水のように膿んだ言葉を吐き出す。背中にも心にもノミが張り付いて、まるで猫ではなくてノミなのではないかと錯覚する程であった。実際、俺自身も彼をノミだと思っていたし、それは今この時にまで継続していることは言うまでもない。けれども、その毛並みはしなやかで、時折、首回りに付いたファーのように柔らかく、夜に紛れる黒髪はさらさらと細かった。ある時、軽い身のこなしがバレリーナを連想させた、と数少ない友人に語ったら、『白鳥の湖』という本を貸してくれた。結局、その本は読まずに翌週には返してしまったが、きっと奴の生き写しのような輩が登場人物に描かれているのだろうと思った。例えば、人を欺いたり、誘惑したりだとか。
そんな黒猫なんて可愛いものではない、と人は笑うだろうか。確かに可愛げなど何処にも有りはしない。しかし、これだけは正しく猫だ。死に場所を隠した、という事実は。
折原臨也が姿を消してから半年が経っていた。奴は毎度ロクなことを起こさないが、一際大きい不祥事を起こしてトンズラしたことは、恋にも流行にも疎い俺でも知らないわけがない。何故なら、煙を撒く直前まで、俺の膝の上でにゃあにゃあ煩く鳴いていたからである。勿論、性的にも。
言わずもがな、折原臨也との関連事項として真っ先に挙げられるのは俺である。放たれた刺客は数えきれない程いた。とんだとばっちりだった。とはいえ、なんで俺ばかりこうツイていないんだ、もう一度あいつに出会ったなら絞め殺してやる、と呟く頃には怪我人が転がっているくらい、紙のようにペラペラな、貧弱な式神であった。
そんなショボくれた雑魚敵を相手にした夜に、首に銃弾が埋まっていたのを見つけたわけだが、自分で抜くのは怖かったし、かといって、そのままにするのはいよいよ鉛中毒になりそうで気分が悪かったので、プロに頼むことにした。
闇医者は出迎えるなり素手で弾丸を引き抜いた。仮にも医者だろうと反論する前に、良いところに来たね、と言う。出ておいで。そう言った新羅の後ろ、居間へと繋がる扉から、ひょっこり姿を表したのは、何処へ行ったか、すっかり汚くなった飼い猫だった。
「シズちゃん」
臨也は仮にも怪我人である俺に容赦無く飛びかかった。体重は軽く、俺の体はびくともしなかった。普通は同性が飛び付いてきたら少しはよろめくものだが、どうやらたった今、新羅からスープを貰っただけらしい。その証拠に、廊下にまで漂ったポタージュの香りとノミ蟲臭が少しばかり同化していた。
「手前が居なかったせいで、俺は災難に遭った、謝って済むと思うなよ。何処行ってやがった」
「棺桶探してたの」
「いい物件は見つかったのか」
「東池袋42-0-13、8号室にお住まいの平和島静雄さん」
臨也は俺に張り付いたままだったから、その心は読み取れなかった。が、前を開けたベストの下、シャツがじんわりと濡れるのを感じて、臨也が俺を指定した意味を悟った。
「早く出て行ってくれないかな」
新羅は珍しく俺たちを哀れんでいた。初めて見た表情に驚く。闇医者にも涙腺があるのだと知る。
「静雄、敵を蹴散らそうなんて酔狂なマネはしない方が良い。このおバカさんはね、地球から宇宙ステーションまで敵に回したようなもんなんだから。流石の君も核爆弾百連発には耐えられないだろう?それも、臨也を守りながら」
新羅の言葉を借りるなら、四面楚歌というわけか。一体臨也が何をやらかしたらそんな映画みたいな話になるのかさっぱり分からないが、こいつが漸く腹を括って俺に殺されたがっていることは確かだ。
新羅は俺の肩に触れて言う。
「残念だよ、僕は結局君を解剖できそうにないんだからね」
彼は俯いていた。泣きじゃくる臨也はやっと顔を上げて、新羅を見上げると、しんらぁ、と抱きつく相手を変えた。半年前だったら俺は新羅を殺していただろうが、そんな気は全く起きなかった。今生の別れという言葉を、今使わずして何時使えば良いのだろう。
俺の覚悟は、瞬間接着剤が俺の傷を塞ぐように簡単に、しかしダイヤモンドの硬度を持って固まった。何、特に難しいことではない。むしろ、大昔から望んでいたことだ。この時を待ち侘びていた。
「解剖させてやってもいいぜ。髪の一本でも残ってたらよ」
「骨を拾いに行ったら僕も死んじゃうね」
臨也はさっきから顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら喚いていた。
「しんらともう一回一緒にパフェたべたかったよ」
ちょっと待て、俺に内緒でデザートを食べるなんて許せないな。
「僕もだよ。これからは静雄に連れて行ってもらうんだよ」
「しずちゃん、コーヒーゼリーパフェきらいだもん」
悪かったな、と臨也の髪をひとつまみ掴んで引っ張ってやる。何本か抜けた。痩せた身体も引き摺られて、新羅とは引き離された。臨也はますます大声を上げて泣く。今まで無駄に高いプライドが邪魔して泣けなかったのだろう、子供に退化したようだ。元々紅い目は充血して白目が無くなるんじゃないかと思う程だ。あんまりうるさくするものだから、腰に手を回して引き寄せてやれば、やっと少し大人しくなった。しゃっくりが止まらないので背中を摩ってやる。我ながらよくキレずに対応できているものだ。それも、全ては冥土の土産になるからだろうか。
「世話になったな」
新羅に礼を言って部屋を出ようとすると、彼は俺より早く玄関の扉に手を掛けた。
「池袋にはもう戻って来ないでね」
念を押されたことに怯えたのか、しがみ付いたままの臨也の、シャツを握る力が破れるくらい強くなった。実際に、服を構成する糸の数本は切れていたかもしれない。
「心中に失敗した者は、地獄にすら住まわせて貰えないものさ」
俺は新羅の言葉を肝に命じると、必ず臨也をこの手で殺してやろうと思った。俺が死ねる確証など何処にもないが、せめて臨也だけは地獄に落とされる程度で済んで欲しかったのだ。
新羅はゆっくりと玄関のドアを開かした。ひゅう、と冷たい秋の風が吹き込んでくる。唸った風は奥のリビングのカーテンを舞い上げて、そのドアまで閉めてしまうと、俺たちを招くように風向きを変えた。
「バイバイ、しんら」
臨也は、並行世界で死んだかのように穏やかに笑って手を振った。真っ当に生きていたならば笑顔を浮かべて死ねたであろうに、安らかな寝顔を新羅に見せられたであろうに、こいつは本当にアホな選択をした。けれども、臨也がこの世界側にやって来なければ、こうして大切な友達を作ることも無かったのだろうなと、出会えたとしても、薄っぺらい上辺だけの付き合いで終わっていたのだろうなと思うと、黙って手を振り返して涙を一粒だけ零してくれる存在は実に優しく、美しかった。
二度と訪れられないマンションの、エレベーターの光景を目に焼き付けながら降りていく。一階に着いて、ドアが開いてもなかなか歩こうとしない臨也の手を引いて、外に出た。月の出ない晩を迎えた住宅街には、ある程度予想は付いていたが、闇に紛れた黒いバイクが停まっていた。
「よお」
セルティは、乗れ、とでもいうようにバイクを進め、後部に付けた荷台へ促した。
「悪いな、ノミ蟲も一緒で」
彼女は素早く影でヘルメットを構築すると、俺に投げ渡した。ワンテンポ遅れて、ひと回り小さいものを作った彼女から、ヘルメットを受け取った臨也は、ごめんね、と頭を下げて謝った。きっと最初で最後の謝罪なのだろう。
俺たちが乗ったのを確認すると、セルティは無言のまま、影を引き伸ばした。ベール状に広がった黒い布が、荷台ごと俺たちを包む。すっかり辺りが見えなくなるかと思えば、マジックミラーのようにうっすらと外が見えて面白い。
シューターが嘶く。黒バイクはゆっくりと走りだし、やがて闇を闇で裂いた。次元すら飛び越えてしまうくらい目まぐるしいスピードで駆け抜ける。通り過ぎる、網膜に残る、都会の電灯が眩しい。
臨也はずっと外を眺めていた。生まれ育って、毎日のチェイスの舞台にもなったこの街を見つめていた。思い出も沢山あるだろう。やり残したことも数えきれないくらいあるだろう。この街で人間を見て居られなくなる日が来るとは、まさか本人も思っていなかっただろう。
俺自身、こんなことになるとは思わなかった。臨也がヘマをしても、あとでたっぷりお仕置きをしてやる代わりに、俺が片付ければ済む話だと思っていた。そのためにこの力はあるつもりだった。俺は死ぬまでこいつの尻拭いをしなければならないのかと思うと腹が立ったが、毎朝作られる味噌汁を啜れば、怒る気になれなかった。紆余曲折の末の果てにある幸せは、この街で無限に続いていく、いや、続かせてやろうと誓った。それは俺とこいつの、一対の薬指が証明している。
臨也が、はあ、と手のひらに息を吐いた。十月の夜は容赦無く冷え込み、平熱の低い彼には堪えるだろう。外を眺めることをやめた臨也の肩を抱いてやった。震えは次第に治まった。池袋の街は、とっくに明暗の向こうだった。
【2】
夜明け前に、バイクは停車した。腕時計を見ると午前四時を指していた。八時間程走ったということか。今どの辺りにいるのかはよく分からないが、空気の良い森の前に居るということは、池袋からは想像も付かないくらい遠く離れた土地なのだろう。
『私にできることはここまでだ』
セルティは後部に座る俺たちにPDAを見せる。ゆっくりと荷台から降りた臨也を忌ま忌ましげに見つめると、手を伸ばして、しゅるりとヘルメットの影を巻き戻した。
『静雄の前でこんなことは言いたくないが、私は本当は、お前には無残に死んでもらいたかったよ』
「ごめんね」
『調子が狂うな』
ふい、と視線を逸らした彼女は、森の奥を指差す。
『この先にある海岸沿いの集落は、今は殆ど廃村に近い形になっている。電気も僅かしか通っていない。そこならきっと安全に暮らせるだろう。暫くは』
流石デュラハンだ、俺たちがどんな形であれ無事では済まないことが分かるらしい。
「恩に着る」
『返しに来るな、静雄』
「いつもして貰ってばかりで悪いな」
『これで最後だから』
セルティの影の揺らぎが乱れている。俺は最後まで彼女の本当の素顔を見ることはできなかったが、少なくとも先程の新羅と同じ顔はしているらしい。臨也はセルティが動揺している様を黙って見ていた。
「じゃあな」
『迎えに行けたら、行くよ』
「そうしてくれ」
同じように魂を運ばれるのだとしたら、友人の手によられる方が良い。どうせ葬式も挙げられないのだ。それくらいの我儘は通させて貰いたい。こいつはどうか知らないが、俺にはその権利がある筈だ……いや、駄目だ、俺の手で臨也を殺す以上、その選択権は投げ打ったようなものだ。だとしても、俺は引き返さないだろう。空が白み始めているから。
臨也のコートの裾を、くいっと引く。足を縺れさせながら着いてくる臨也は、おかしなくらい口を開かなかった。自分の起こした責任を嫌という程感じているから、敢えて何も言わないのだろう。謝ったところでセルティが許すわけがないのも承知な筈だ。
森は暗く、深く、最早ひとつの樹海のようだった。季節が季節だけあり、虫がいないのは助かった。下手に病気になっても意味がない。と、考えたところで、人間というのは極限状態に追い込まれつつあっても、既にその場では意味を成さない俗世の規範に縛られているのだと知る。けれども、これから死にに行く身にだって秋の早朝の寒さは痺れるし、何も物思いなどしないわけではない。この世で最も厄介なものは感情だ、と、いつかの臨也の持論が身に染みた。余程の狂人でなければ人を殺すことなどできやしないのだろうな。そして俺は、明日にでもその狂人に成ろうとしている。それも、最愛の人を手に掛けるという、大罪を。
林の一番先頭に立った木を除けて、入ろうとするとセルティが肩を叩いた。ちょっと待ってくれ、と言うセルティは、指先からずるりと影を引き出すと、適当な長さで、ぷちりと切った。そしてその布を俺と臨也の首を覆って、巻いた。
『これで、凍死する運命は免れたよ』
暖かな餞別は、これから先を迎える俺たちには嬉しい贈り物だった。一つの最悪の可能性を断ち切ってくれたことにも感謝する。俺は、何が最悪で何が最悪ではないのかが分からなくなっていた。
「ありがとな」
臨也が口をぱくぱくさせたまま、声が出ないでいるので、背中を叩いてやる。押し出された臨也は前のめりになって止まると、小さく、ありがと、とだけ言った。
セルティは無言でシューターに跨ると、彼の高いいななきを残して去って行った。藤色の空へと、山を下る彼女は墨を垂らしたように黒い。まるで新月の柔らかな闇を残して消える、残光のようだった。
彼女が朝靄に霞んでしまったので、いよいよ木々の海へ泳ごうとする。
「待って」
臨也は俺を引き留めると、素早くケータイを取り出した。
「最後に、ひとりだけ」
俺の許可を取る前に、彼は意を決したように画面をタップした。こんな山奥で掛けているのだ、駄目元なのだろう。長い長いコール音が俺の耳にも届く中、臨也は眉根をハの字に寄せる。そしてプツリと接続音がして、臨也は、はっと目を開くと、すぐにほっと息を着いた。
鳥の一羽すら鳴かない、時間の止まった森の入口で、話者は問う。
『臨也か』
「シズちゃんと一緒」
『そうか』
門田のことだ、俺たちが今何をしているか等、粗方予想はついているのだろう。必要以上に語ろうとしなかった。その空白ではない、無言でありながら濃密な時間を過ごした臨也は、鼻水を啜ると、さよなら、ドタチン、と言うなり電話を切った。通話終了、の四文字がこの時程、心を穿ったことはない。臨也はケータイを閉じられないままだった。電源ボタンすら押せなくなって、震える手でケータイを逃がさまいと握りしめるので限界なようだ。
「妹たちには、良いのか」
「シズちゃんこそ、ご家族には良いの」
「幽がいるから」
三ヶ月前に幽から電話がかかってきた時に、いずれ俺の身に何かが起きることは伝えていた。その時に、臨也さんのことだね、と言っていたので、もう大丈夫だろう。あとは何とかしてくれるに違いない。
それよりも今は追っ手の方が心配だ。ケータイを使ったことにより、臨也の生存を気付かれたかもしれない。それでも臨也を避難する気にはなれなかった。時代劇ですら辞世の句を読ませる余裕をやるし、アニメですら三分間待ってくれる。その程度の人情はたとえ化け物と呼ばれようが捨てたりしない。
臨也が、持っていた複数のケータイを全て俺に差し出した。ナイフより恐ろしい致死武器を俺には手渡した。することは一つだ。
俺はケータイを、一つずつ握り潰した。まずはバキリと大まかに潰し分け、そしてその破片を、ぎゅっと砂になるまで握って粉砕していく。スマートフォンもガラケーも全てカラフルな粉になったところで、地面に撒いた。更にその上に、周りにあった土を被せて行く。
「これで丸腰だな」
「遺品整理が楽でしょ」
行こうか、と臨也は足を踏み出した。朝焼けが白くて青くて、何故だろう、これから死ぬというのに心が洗われた。ほんの少し救われた。朝日に浄化される。臨也は、ふと振り返った。眩しすぎる世界を目を細めて見ていた。そして再び幽玄の森へ飲み込まれる。
青い森は冴え冴えとしていた。音など無い。風も吹かず、樹々は呼吸することをやめたように佇んでいる。時折、苔生した倒木が行く手を阻んでいた。人を許したことのない自然が、まだ現代にも残っていたのかと不思議な気分になる。
森は緩やかな傾斜を描いていた。道無き道を下る。湿った土の匂いがする。少し靴の中に入ってしまったが、不思議と不快感は生まれなかった。アスファルトに慣れた足は早くも疲れ出したのか、臨也は俺の左腕にしがみついて来た。
二人分の黒いマフラーに顔を埋める。はあ、と白い吐息に、余計に凍えそうになった。すると、塩の匂いが鼻を掠めた。海が近いらしい。視界が明るくなる。朝の日差しに照らされた、古びた集落が見えてきた。
【3】
結論から言うと、俺は臨也を殺せなかった。
この村には何もなかった。初日、ひび割れすぎたアスファルトを歩きながら集落の隅々まで探検したが、ススキの伸び切った畑にも、民家の少ない交差点にも、誰一人いなかった。草の揺れる音に驚いて振り返ったら、子連れのタヌキらしき生き物が草葉の陰からひょこっと此方を見つめていた。あはは、かわいい、こっちおいで、と臨也が喜んでいる中、俺が民家の一つにお邪魔させてもらうと、二階の和室の布団の中で白骨遺体を見つけた。骨は茶色く、その手の知識がない俺でも相当な時間が経っていることがわかった。その隣の民家も覗こうと一時間もの時間をかけて、歩いたが、その中はガランとして何もなかった。昔人が住んでいた形跡があったが、随分前に引っ越したらしく、此方も廃屋となっていた。十月だというのに緑は鮮やかで、壁にドアにツタが張り付いていた。
海岸側にも出たが、どの家も空き家だった。山の方面とは違い全体的に潮風の影響で風化が進み、夏場の陽射しにやられたのか、家具や庭に置かれたバケツなど、ほとんどの物体が日焼けして脱色していた。
地方の過疎化という言葉はよく聞く言葉だが、これ程までとは思わなかった。都会で暮らしてきた俺たちには想像を絶する世界だ。まるで世界ごと壊れたのではないかと錯覚した。あんまり人が居ないから、俺たちが互いに喋らなければ日本語くらい簡単に忘れてしまいそうだ。臨也は至って平常そうに、誰も居ないことに安堵していたけれど、やはり不安を隠しきれないらしい。歩幅が違うので、俺が少しでも歩こうとすると、ぱたぱたと後ろから追って来ては、さり気無くベストの裾を摘まんでいた。
日が暮れてきたので、海沿いの小さな小屋を見つけて、そこで休むことにした。小屋は元は倉庫だったらしく、漁師が使っていたと思われる網から、芝刈り機までなんでも置いてあった。中には非常食が詰められた衣装ケースもあった。賞味期限はとっくに過ぎていたが、臨也曰く、缶詰はきちんと保管すれば十年は持つらしい。俺はよくもまあ、こんな古い缶がここまで持ったものだと目を丸くした。一体どんな防腐剤を入れたらそんな効用が現れるのかわからなかった。臨也は、それよりも内装が汚いとか狭いとか埃っぽいとかで、ぎゃあぎゃあ文句を垂れていたが、仕方ないだろ、と言うとそれきり黙ってしまった。
倉庫の奥にマッチと蝋燭があったので三本だけ焚いた。電気の通らない世界で、臨也は、キャンプみたい、と面白がっていた。誰のせいだと思っているのだろうか。困った配偶者だった。
けれども、適当にあった茣蓙を敷いて雑魚寝をすれば、最初は疲れてすぐに眠ってしまったが、三十分もしない内に起き出してひっそりと泣き始めた。俺がまだ起きていることも知らずに、体力も消耗するのに、ベソをかいていた。元はと言えば自業自得なのだ。ここで覚悟を決めないと、もっと苦しみながら生きなければならなくなる。
できることなら生かしてやりたい。それは誰しもそう思うだろう。しかし、こいつが起こした過ちは余りに大き過ぎた。誰にもフォローのできないことでもしたのだろう。懺悔して許される問題ではない。俺はその内容など聞きたくもなかった。やはり臨也は宿敵だからだ。どんなに想いを伝えあって好きあって一緒に過ごしても、こいつが今まで俺にしてきたことが無くなるわけではないからだ。むしろ、無くなったら困るのだ。俺は何のためにこいつと一緒にいるんだろう。最後は、この手で殺すためではなかったか。殺すために一緒にいた。家畜と同じだ。だが、家畜よりも情を持ち過ぎた。失敗だった。
情を持ったからこそ、俺はこの手でこいつを殺さねばならない。他の誰の手にも渡してはならない。まして、人生最期の時を他人に奪われるなどあってはならない。他の誰かに殺されたところで、臨也は幸せになれないからだ。俺の独り善がりな妄想ではない。それは俺に殺されたいと、俺を指定した時に知っていた。
啜り泣きは何時の間にか無くなっていた。そうして、俺は始めて臨也を抱きかかえて眠ったのだった。
次の日、日の高く昇る頃、俺たちは目を覚ました。昨日と同じ缶詰を食べて、一息をついた。無音の時間が続いた。互いに、何時、それを行うのか様子を伺っていた。微弱な空気の振動にも驚く俺たちは、目に見えて神経を尖らせていた。ここには誰も来ないとは思っていた。しかし、それも時間の問題だろう。生き延びようと思えば思う程、もっと苦しい終わりが目を光らせて臨也を喰らおうとしているのが分かるのだ。時間という闇が虎視眈々と臨也の息の根を止めようとしているのだ、早く俺が殺してやらなければ、こいつは地獄にも落ちられない。俺ができることは、こいつの最期の望みを叶えてやることなのだ。そのために、じっくりと密やかに、誰にも邪魔されずにできるように、セルティも新羅も協力してくれた。池袋に残してきた数少ない仲間たちが、きっと少なからず時間を稼いでくれているのだ。カラーギャングの情報網があれば、この自殺に持って来いの場所などすぐに炙り出せる筈なのに、今日も至って穏やかだ。誰の侵入もない。来良のガキたちが動いていることくらい、俺みたいな馬鹿でも予想できる。そのことは、俺以上に本人が自覚していることだろう。
俺は隣に座る臨也を押し倒した。着込んでいたコートの前を開ける。そして首に手をかけた。臨也は何も言わない。殺されることを待っているのだろう。蝋燭の明かりに頼らない、薄い窓から漏れる日光に照らされて見えたその顔に、涙は無かった。ただ、俺だけを紅い視界に捉えている。俺だけを見ている。紅玉は揺れ動かない。何も物を言わない。憎らしい口元は弧すら描かず、閉じられたままだ。らしくない、人形のようだ。両手の力を増やす。抵抗もしない。俺の名前すら呼んでくれなかった。更に力を込める。込めた。込めたつもりだった。臨也の首はキュッと締まり、絶命する筈だった。何も起きない。何も起こらない。何も起これない。本能が、こんな時だけ都合の良いように、俺の力を制御しやがったのだった。
殺せない。俺に臨也は殺せない。
手が震えて、臨也の首から離してしまいそうになる。すると臨也は、俺の手を自分の手で包んで、首を掴ませた。自らの手で、首を締めるように俺を誘導した。そして、怒鳴り散らした。
「女々しいんだよ、バカシズ!!さっさと殺せ!!」
俺はそれに、はっとして、つい臨也の首から手を離してしまった。それに気付いて、臨也はぼろぼろと涙を零しはじめた。どうして、という臨也に怒鳴り返した。
「できない、できねえよ!」
そうして二人して泣き叫ぶことしかできなかった。煌めく朝日に似つかわしくなかった。臨也は、美しくなんて死ねやしなかった。紛れもない、俺の弱さのせいだった。
→→→
2013.11.09
2013.12.22修正
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